あなたが髪を切るとき

 待ち合わせに遅れたのは、たいして重要でもない用事を片付けていたからだった。

 ごめん、30分ぐらい遅れる、とLINEを送ると、優子は気にしたふうでもなく、わかった、待ってるね、と返事をした。

 

 付き合って2年半になる。お互いに集合時間にはルーズになった。

それが僕らにとって悪いことであるとは思っていないし、他人に気を遣うことに疲れてしまった僕らにしてみれば、お互いに「いい加減」に気を許し合えていることが、むしろ喜ばしいことでもあるぐらいだった。

 

 仕事を始めてから、休日の過ごし方に注意を払うようになった。

それまで、平日も休日も変わらないような生活を送っていたから、休日に特別のありがたみを見出すようなこともなかったが、働き出してからは週末が待ち遠しい。

 毎週末には優子と会う約束がある。週に1回、つまり、月に4回。僕らのデートの間隔は、どちらが口にしたわけでもないが、そのように決まっていた。

 

 行きの電車の中で、読みかけの本を読む。

 僕は、待ち合わせに向かう電車の中で本を読んでいる時間が、人生で一番幸福な時間だと思っている。数十分後に会う恋人のことを頭の隅っこにおきながら、少しひねくれたような恋愛小説を読んでいるときは、ほとんど恋愛に酔っ払っていると言ってもいい。

 

 ねっとりとした6月の空気と、無機質で人工的なにおいのするエアコンの風が混ざり合った、どんよりとした電車の中で、哲学的な意味ではなく、実感として、ああ、生きているなあ、とぼんやりしながら、活字を読み流す。

 

 この上り電車に座っている人はみんな、土曜日の夜を楽しむために、東京のどこかに放たれていく。

今は無表情の誰も彼も、会うべき誰かに会った折には、安心からか享楽からか、顔をほころばせる。

 

 仕事を始めてから、土曜日の夜を楽しむことに、なかば強迫的にさえなっている。

 

 渋谷駅近くのタワーレコードにいると言うので、少し足早に、人の波を縫うように、北のほうへと歩く。

どうしたって渋谷にはこんなに人がたくさん集まるのだろう。人が人を呼んで、いつの間にか街がパンクしてしまいそうなぐらいに、そこかしこに人の塊ができている。

路上は息苦しくて、空はひどく窮屈で、でも、ある意味では、これ以上なく開放的なところだ。

 

 優子がいるという3Fの売り場に行ったのだけれど、その姿は見当たらない。いまどこ?とLINEを送る。

小さなスマホの画面に見入っていると、背中から、腑抜けた声をかけられる。

 

「ねえ。」

 

 振り向きざま、自分がどんな顔をしていたか、今思い返しても分からない。

驚いたような、あっけにとられたような顔をしていたと思う。

 

優子の髪は、数十センチも短くなっていた。

 

「私の前、通り過ぎってったんだけど。なんで気づかないの。」

 

 怒っているというよりも、何か感想を言って欲しい、願わくば、褒めて欲しい、といったふうな口調で詰め寄られる。僕は笑ってしまう。

 

「ごめん、全然気づかなかった。ずいぶん短くなったね。」

 

 胸まであった髪は頰の辺りの高さで切りそろえられている。前髪が少なく、隙間から眉毛が見え隠れする。

似合ってるとも、似合っていないとも言い難い、フェミニンでモダンなスタイルだけれど、垢抜けすぎていて、優子には少し格好がつきすぎているような髪型だった。洋

服だったら「着られている」と言うのだろうが、髪型だとなんと形容するのだろう。

 

 とにかくそれは、優子の不安そうな表情も含めて、とても愛らしい感じだった。

 

「似合ってる。こんなに短くしたの、すごい久しぶりなんじゃない?」

 

「10年ぶりぐらいかな。」

 

 女の子が髪を切るというのは、男のそれよりも、神聖で、重大で、場合によってはひどく疲弊する儀式だ。

それを分かっているだけに、僕は、自分ができるありったけの好意を込めて、彼女の勇気や決心や、そしてその髪型自体を、褒めてあげたいと思った。

 

 エスカレーターで階下に降りて店を出るまで、彼女は言い訳をするかのように、髪を切ってくれたスタイリストが恐ろしく饒舌だったことや、髪を切るまでに30分もかけて入念にスタイルを決めていったこと、周りの反応などを話した。

事細かに、口早に、情景がありありと思い浮かぶように。

 

 僕は彼女が息をつくのに合わせて相槌を打つ。

 

土曜日の夜がはじまる、午後7時頃のことだった。